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アメリカ大陸はコロンブスが到達してから世界史に登場したが、東南アジア地域は、ヨーロッパ人が到達する前から、周囲の世界に対して深甚な影響を与えていた。冒険商人トメ・ピレスが一五一四年頃に著した『東方諸国記』(岩波書店)にマラッカで取引していた人々について、感嘆しつつこう記している。 ◆貿易拠点マラッカ 「カイロ、メッカ、アデンのイスラム教徒、アビシア人、キルワ、メリンディ、オムルズの人々、ペルシャ人、ルーム人、トルコ人、トルクマン人、アルメニア人のキリスト教徒、グザラテ人、シャウル、ダブル、ゴア、ダケン王国の人々。マラバル人、ケリン人。オリシャ、セイラン、ベンガラ、アラカンの商人、ペグー人、シアン人、ケダの人々、マラヨ人。パパンの人々、バダニ人、カンボジャ人、シャンパ人、カウシ・シナ人、シナの人々、レケオ人。ブルネイ人、ルソン人、タンジャウブラ人、ラヴェ人、パダ人、パリンバン、ジャンビ。トウンカル、アンダルゲリ、ガボ、カンパル、メナンカボ、シアク、ルパト、アルカト、アル。パセー、ペデヴィル、デヴィヴァの人々…」 文中の民族名には、現代の発音と異なり、同定できないものがあるが、環インド洋と環シナ海を二つの柱とする「海洋アジア」の全域から無数の人々が東南アジアに集まっていたことが知られるであろう。 文中の「レケオ人」とは琉球人(沖縄人)のことだ。琉球(沖縄)では十四世紀に、沖縄本島の北部、中部、南部が分立して三山時代を迎え、翌世紀に尚氏が統一王朝を作り上げた。この琉球王国は中国・朝鮮・日本はもとより、シャム、マラッカとも交易し、環シナ海を舞台に「蓬莱島」「万国の津梁(しんりょう)(渡し場と橋)」とその繁栄がうたわれた。 「レケオ人」の赴いたマラッカはすでに五百年前に国際貿易の要(かなめ)の地位を占めていた。東南アジアは、すでに十六世紀前半に世界貿易センター、文化交流の拠点の様相を呈していたのである。 東南アジアを境に、海洋アジアはインド洋圏とシナ海圏の二つに分けられる。インド洋ではイスラム教徒のダウ船が、シナ海には中国人のジャンク船が行き交っていた。海洋アジアの担い手からみれば、インド洋圏は「海洋イスラム」、シナ海圏は「海洋中国」ということができよう。 ◆欧州と海洋イスラム ヨーロッパは、ヴァスコ・ダ・ガマがインドの西海岸カリカットに到達する一四九八年よりずっと前から、ヴェネチアを主な窓口として海洋イスラムから東方の物産を購入していた。 胡椒・香辛料、コーヒー、砂糖、インド木綿、インディゴなど、近代のヨーロッパ生活の基礎となった物は海洋イスラムからもたらされており、十六世紀になるとヨーロッパ人は海洋イスラム世界に直接購入に出かけた。ポルトガルが先鞭をつけ、スペイン、オランダ、イギリスなど、続々と国家の全面的支援を受けて海洋アジアに乗り込んだのである。 一方、中国の国柄は「南船北馬」といわれるように、馬を輸送手段とする大陸中国と、船を輸送手段とする海洋中国とがある。華僑は、西洋列強が錫鉱山やゴム農園で雇用したことによって東南アジアに出現したと思われがちだが、福建・広東ほか沿岸の海洋中国人は、環シナ海を舞台に千年以上の歴史を刻んでいた。 十五世紀初め、明中国は首都を南京に定め、鄭和の遠征(一四〇五−三三年に七回)をもとに海洋帝国を築く動きさえ見せたことがある。 ◆江戸時代の唐人貿易 日本人が長安や北京に代表される大陸中国を仰ぎみたのは遣唐使の時代と現代だけで、それ以外の時代は海洋中国と交流を深めてきた。中世以後の日本人は寧波を拠点とし、彼ら海洋中国人を「唐人」と呼んだ。唐人との付き合いの濃密さは、元寇の際に日本人が「唐人」の命だけは助けたことからも知られよう(元代中国には蒙古・色目・漢人・南人の区別があり、日本人は「大陸中国」の蒙古・漢人は敵として殺した)。 シャムのアユタヤをはじめ、東南アジアの日本人町には、海洋中国人が必ず隣人としていた。江戸時代の長崎貿易は唐人貿易と呼ばれ、長崎にはオランダ人の居住する出島より規模の大きい唐人屋敷があった。 中世から近世にかけて、ヨーロッパは「海洋イスラム」の影響を、日本は「海洋中国」の影響をもろに受け続けた。東西両端の近代の主役(日本とヨーロッパ)は海洋アジアとの交流から生まれてくるのである。 (早稲田大学教授 川勝平太)
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