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もう一度、茶の湯とミサの間の主要な類似点を挙げておこう。一方の「茶と茶菓」と、他方の「ワインとパン」。濃い茶を回し飲みした後に茶碗を拭う作法と、聖体拝領(聖杯でワインを回し飲みすること)の際に聖杯を布巾でぬぐう作法。茶会の「一味同心」の交わりという理念と、ミサの「コミュニオン」(これは聖体拝領という意味であるが、もともとは共同体のつながりという意味)という理念とである。 類似するとともに対照的であるような点もある。例えばミサの儀式空間としての「祭壇」と、茶の湯が行われる場所としての「茶室」。前者はたいていステンドグラスの窓や絵画や彫刻を周囲にもっている。後者はとりわけ床の間に書や生花を持ち、種々の障子窓から光が入る。いずれもそれぞれに異なった宗教芸術の世界である。ステンドグラスないし障子窓から入る「光」もまた、それぞれ違った在り方をしている。一方は「神の光」であり、他方は「自然の光」である。「自然」とか「神」とかをめぐる東西世界の根本経験がそれぞれの背後にある。 このことからひとつの予想がつくであろう。カトリックという世界宗教がその儀式の精髄として、一千年を超える歳月を投入して練り上げてきたのがミサである。これに対し、茶の湯という、形式の完成度においても内容の深みにおいても十分に競合し得るような、宗教的・芸術的所作の世界がすでに安土・桃山時代の日本に成立していたのである。 ◆仏教を背景に普及 草庵の侘び茶の精神は、それ以前の公家茶事や武家茶事が禅家の作法と合流するところに成立した。もともと茶の普及の歴史そのものが、各段階でいずれも仏教を背景としている。 林屋辰三郎氏が指摘しているように(「茶の普及の三段階」=淡交社『茶の文化』所収)、唐・宋・明のそれぞれの末期にあたる茶の渡来の三段階は、平安時代の最澄と空海、鎌倉時代の栄西を祖とする臨済禅、江戸時代の黄檗(おうばく)禅を媒介者としていた。そういう背景のもとで、千利休=肖像画=が「草庵茶」とも「侘(わ)び茶」とも言われる茶道を大成した。 その精神は『南方録』が語るように、「家は漏らぬ程、食事は飢えぬ程度にて足る事也、是仏の教、茶の湯の本意也」である。この「静寂」の精神は、カトリック修道僧の生活規範である「清貧」に、極めて近い。イエズス会の宣教師たちが日本の茶の儀式に関心を向けた理由は、彼らの伝道の拠点形成という動機と重なっていたとしても、そういう動機を可能にするような精神性が、茶の湯の側にあったのである。 ◆紅茶文化との対比 茶の湯とミサの間のこの類似と対照はしばしば引き合いに出される別の例、すなわちイギリスの紅茶文化「アフタヌーン・ティー」との対比に比べて、はるかに深い次元に届く。 イギリス人の生活習慣であるアフタヌーン・ティーは、日本の茶と同じく中国の茶というルーツを持っているから、両者は全くの「異文化」ではない。加えてアフタヌーン・ティーには、社交に関するいろいろの作法があるようではあるが、ミサのような象徴性もなく、茶の湯のような芸術性もない。 角山栄氏の研究によれば(「茶とヨーロッパの食事文化史」=『茶の文化』所収)、ヨーロッパ人が茶に接したのは十六世紀である。しかし、茶はワイン文化圏には割り込めず、飲料の貧弱なイギリスに根付いたのだという。フランスやオランダが主導権を握るコーヒーと、スペインが主導権を取っていたココアに対し、イギリスは中国との(後にはインドとの)茶の交易において、主導権を得たという事情も、背景にあるようだ。 逆に言えば、「ワイン文化」を背景とするカトリックの「ミサ」こそ、「茶の文化」を背景とする「茶の湯」にとって、また後者が前者にとっても、異世界同士であり、競合の相手だということになる。ただし、自覚的にこの競合を行うという事態は生じなかった。日欧の双方がこの自覚に至っていなかった。 ヨーロッパ世界は大航海時代を背景とする拡大の絶頂期に、全く異質の高さをもつ文化に出会った。しかしながら出会いの相手を競合の対象としてみていた。日本の為政者もまた、キリスト教布教の背後にある支配意志を感知し、むしろキリシタン弾圧へ向かった。 (京都工芸繊維大学教授 大橋良介)
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