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日本人と鉄砲との出会いは、ヨーロッパ人との出会いでもあった。教科書には天文十二年(一五四三年)に種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を伝えたとある。もっとも、この記述が疑う余地のない事実かというと、そういうわけではない。学界では今日でも激しい論争がある。 ◆鉄砲伝来めぐる論争 鉄砲伝来に関する日本側の史料は、薩摩の南浦文之(なんぽぶんし)和尚が書いた『鉄砲記』である。『鉄砲記』はそこに「鉄砲伝来から六十年余り経った」と記されてあり、後代の作であるから、当然、その内容をめぐって多くの議論がある。多くの論争点をふまえ、バランスのとれた記述をしている書物を一冊だけあげておくと、洞富雄氏の『鉄砲−伝来とその影響』(思文閣)が網羅的で包括的である。 さて、鉄砲伝来について『鉄砲記』には大略つぎのように記されている。 天文十二年八月二十五日、種子島の西村の浦に大きな外国船が来着した。この船の国籍はわからない。その中に漢字を理解できるものがおり、名を五峯(ごほう)といい、筆談ができた。外国商人が乗船しており、一人をムラシュクシャ、もう一人をキリシタダモウタと言った。彼らは鉄砲と称する驚くべき火器を持っており、領主の種子島時尭(ときたか)はこれを高価をいとわず購入した。 時尭は家臣に命じて外国人から火薬調合の方法を学び、また銃筒を模造させた。だが、銃尾がネジのついた鉄栓でふさがれており、ネジの製法を当時の日本人は知らなかったので、翌年再び来航した外国人から矢板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造に成功した。 こうして、伝来からほぼ一年後に数十挺の鉄砲を製造することができた。この時、紀州根来の杉坊(すぎのぼう)が来島して鉄砲を求めた。時尭は鉄砲一挺を譲り、使用法を教えた。その後、堺の商人橘屋又三郎が種子島に一、二年留まって、その製造法を習得して帰り、人々は彼のことを鉄砲又とよんだ。これ以後、畿内・関西ばかりか、関東にまで鉄砲の使用が広まった。 そう説明し「南蛮人の鉄砲、時尭これを求めてこれを学び、五畿七道にあまねからしむ」と、時尭の功績を称えて結んでいる。 種子島に漂着した船は王(おう)直(ちょく)を船主とするジャンクであり、文中にある「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した中国安徽省出身の海賊王直の号であったことも分かっている。ただ、伝来した鉄砲がヨーロッパ製か東南アジア(マラッカ)製か、決着がついていない。また、鉄砲を伝えたのがポルトガル人なのか、中国人なのか、はたまた倭寇自身なのかについても論争がある。伝来の年を天文十一年とする説もある。 ◆戦史に残る長篠合戦 鉄砲はその発火装置から火縄銃とも、あるいは種子島が発祥地なので種子島銃ともよばれた。製造地としては、文中に名のあがっている根来寺、堺のほか、近江の国友が有数の鉄砲製造地となって発展した。なお、鉄砲に不可欠な火薬の主な素材は硝石、硫黄、木炭であるが、五峯こと王直は硝石を中国、シャム(タイ)から日本にもたらして巨利をむさぼった。 鉄砲使用の記録の初見は、伝来から六年後の一五四九年、薩摩の島津軍と大隅の肝付(きもつき)軍の銃撃戦である。 鉄砲の製造と使用は戦国の世に急速に広まった。一五七〇年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は何と八千挺の銃を撃ったという。一五七五年の長篠合戦で織田・徳川軍の三千人の鉄砲隊が一千挺ずつ三隊に分かれて、いっせい射撃を行って、武田方の騎馬隊をせん滅したが、それをテーマにした黒澤明監督の映画「影武者」によって世界中に知られることになった。 また、秀吉の文禄の役で、釜山に上陸した日本軍の快進撃は「無人の境を行くがごとく」に急速に朝鮮半島を制圧した。それは朝鮮軍が種子島銃の前に無力であったからである。戦国時代の日本は海外に名の知られた軍事強国であった。 ところが、江戸時代にその技術の発達が止まる。幕末に外国勢力が近海に出没するようになって、各藩はあわてて火器改良に乗り出したが間に合わず、結局、開国後は外国人から武器弾薬の購入に狂奔し、銃はもっぱら輸入に仰いだ。 日本は軍拡→軍縮→軍拡への劇的な変化を経験した。なぜ、江戸初期に軍縮が起きたのであろうか。 (早稲田大学教授 川勝平太)
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