【日本よ】石原慎太郎 科学と神
【日本よ】石原慎太郎 科学と神


 先般の三人の日本人物理学者のノーベル賞受賞は、このところ四年にわたり八十億ドルの巨費を投じて行われている国際的な実験、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)と密接な関わりがあるようだ。

 この実験は素粒子との関わりで宇宙の誕生ビッグバンを解明し宇宙の神秘を解明する国際的な試みで、学者たちにいわせれば古代エジプトのピラミッド建設をはるかに上回る共同作業だともいわれている。

 そしてある学者は、この実験が成功すれば宗教の出番が少なくなるかも知れぬともいう。

 つまり物質に働く素粒子の仕組みを解き明かすことが出来れば宇宙誕生の謎が解けて、宗教がある大いなる者、つまり神の意思によってそれがなされたと説明する余地が無くなるだろうと。それをさらに演繹(えんえき)すれば、キリスト教が説く最後の審判なるものの意味合いも薄れてしまうのかも知れないが。

 つまりルネッサンス以来確立された西欧流の自我は、おのれの人生の結末をすべて自分一人で背負って審判に臨むということだろうが、我々はおのれの存在、その人生の光背として先祖を思い、それとの因果を信じているが。そしてその方が救われやすいと思うのだが。

 『宗教も人間の作り出したものだから、人間が学ぶにつれて宗教も変わる。欧米諸国の宗教(つまりキリスト教)は、もう自然を宗教の視点から解明することをやめ、科学にまかせようとしている』とその学者はいう。

 その事例としてニュートンは太陽の輝きを神の力によるものとして説明しようとしたが、すでに人間たちは、それは太陽の中心で水素がヘリウムに変わる核融合反応が起きているからだと知っている、と。

 しかし私にはこのいい分は科学者という専門家の僭越(せんえつ)に聞こえてならない。ニュートンは太陽における核融合について知ってもなお、さらにその向こうに神を見ようとしたのではなかろうか。

 科学と神の関わりについて考える時私は、人類として初めて月に降り立った宇宙飛行士たちの中で、ある者は月面に立って地球を眺めなおし初めて神を感じ地球に戻った後に牧師となり、同じ仲間のある者は逆に月で神を見失い信仰を失ったという興味深い挿話を思い出す。

 人間という強い感性を与えられた動物は、カントがいったようにいかなる精巧な論理をも超えて、他の動物の持たぬ強い情念によって、科学が説明しきれぬものを感得することが出来る。それこそが人間が人間たる所以(ゆえん)ともいえるだろう。そうした認識の濃淡の差が、西東の文化、文明の違いとなって現れてもくる。

 西欧の絶対神をいただく宗教と、一種の汎神論ともいえる仏教をふくめたアジアの宗教との違いは、自らの存在の系譜を証す先祖への意識にも顕著にうかがえる。

 キリスト教徒の多くは、東洋人ほどは自分の先祖と、その象徴でもある墓に強い関心は持たぬようで先祖の尊崇も希薄に思われる。先祖への崇敬プロパーのお盆やお彼岸といった社会的に定例化した祭りや行事はなく、聖人のための祭りに併せて先祖を意識することが多いという。

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 哲学の絶対的な主題である「存在」について考える時、その最も簡易な媒体は自分自身の存在であり、それ故に自らの存在の系譜としての先祖は重い意味を持つはずだろうに、それへの意識が薄いというのは我々にはどうにも解せぬことだ。肝心の聖職者にしてがそのようだ。

 以前請われてハーバード大学で教授陣に講演したついでに、ボストンに近い港町に墓のある、以前日本のヨット界に多くの貢献をしてくれた、親しかったアメリカ人のヨットマンの墓参にいったが、教会の裏手にある墓地で草に埋もれた墓石を探すのに苦労した。同行してくれた牧師がそれを探すのに、足で草を払って埋もれた墓石の名前を確かめる仕草にも驚いたが、彼は彼で、私が持参した、かつての海の仲間の溜まり場だった寿司屋の茶碗に友人が好きだった日本酒を注いで合掌する私を怪訝(けげん)な顔で見守っていたものだった。

 私たちにとっての墓参りは単に身近な死者への訪問ではなしに、彼らの背後の背後に存在した先祖、それぞれの今在る人生の源泉に情念で繋(つな)がる手立てとしてある。

 釈迦(しゃか)が人間の「存在」と人生を洗ってながれる悠久の「時間」について説いた法華経の中の、輪廻(りんね)転生という存在のメカニズムの核心にふれた最重要な章「如来寿量品」の前章「従地湧出品」には、永久の存在である神の表象としての釈迦が、久遠の昔から今までに教えをほどこしたかつての無数の弟子たちを招きよせる劇的なシーンが描かれているが、その弟子たちは天空ではなしになんと現世の弟子たちの足下の地面が揺れて割れてその中から現れて来る。

 それはすなわち、かつて地下に葬られた死者たち、つまり我々の先祖ということだ。

 このくだりを読んで、西欧の信仰者たちはどう解釈するのだろうか。

 という思惑で眺めれば、東西の科学者たちが智慧(ちえ)を出し合っての実験で宇宙誕生の原理を科学的に極めた(?)としても、それを受けてさらにその先に誰が何を見ようとするのかしないのか。

 誰かは神の限界を知ったと思い、誰かはそれでもなお所詮(しょせん)人間はこの世界を、この宇宙を、知り尽くすことなど出来ぬとあらためて悟り直すのだろうか。

 LHCによる未曾有の実験を可能にした現代の科学が宇宙の誕生の原理、つまり我々生命の誕生の源泉について探りあてたとしても、同じその科学の所産としての現代の文明がもたらした自然の循環の狂いが異常気象を生み、人間の存在の舞台である地球そのものを危うくしつつある今、我々はその向こうに一体何を見出し、何を新たに認識しようとしているのだろうか。

 宇宙を作り出して我々の存在を与え、さらにそれを奪おうともする絶対なるものの意思をだろうか。産経新聞