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社会における人間個人の人格が認められたルネッサンス以来、近代、現代文学の主要な主題は人間が構成する社会と個々人との相剋(そうこく)だった。 人間の、人間としての価値の表象である個性、それを表象する感性が人生において踏まえる個的な現実と、社会がその発展的な運営のためにもたらす種々の規制が構える社会的現実は決して合致することはなく、多くの場合前者は後者に破れ挫折するのだが、その相剋がかもしだす劇こそが文学の主題たりえた。挫折に屈することなく、その劇の中で挑みつづける人間こそが実存的人間といえた。 つまり自我の確立こそが、この現代において、人間性の獲得のための必要条件に他ならず、人間としての実存への希求こそが、人生にとっての本質的な主題なのだ。 がしかし、今の時代では文明の悪しき成熟は逆にその希求を益々困難なものにしてしまっている。それを表象するものが、昨今頻発する衝動的な無差別殺人事件といえそうだ。 サルトルはその作品『嘔吐』の中で、公園のベンチで目の前のグロテスクな形をした木の根を眺めながら突然激しい吐き気に襲われる孤独な主人公のロカンタンを描くことで、彼を襲った吐き気はまさに個性的な現実をゆがめられている自分自身に対するものなのだと記しているが、その吐き気がさらに高じれば、殺人という極めて反社会的な行動になりかねぬということを昨今のいまわしい出来事は証している。 しかし、秋葉原の無差別殺人事件の犯人の孤独、孤絶には無惨といおうか、なんとも痛ましいものがある。衝動に駆られるまま秋葉原での犯行に赴く犯人はその途中の車から携帯電話を通じてのインターネットに、無差別に行おうとしている殺人の予告を行いながら走りつづけたが、結果として誰もそれに応えて扇動も揶揄(やゆ)も制止もすることなく、計画は現実のものとして勃発(ぼっぱつ)してしまった。 あるベテラン記者がいっていたが、あの犯人は犯行を終えた今警察で他者なる警察官と取り調べを通じて、恐らく人生で初めて真剣な他者との会話を持っているのだろうと。 それまで続いていた彼の孤独、孤絶はいかにも惨めで痛ましくもあるが、しかしそれは個人対社会という構図をかまえてみればしょせん誰しものことに違いない。 ある精神病医の報告によれば、閉じこもりの末に傷害事件を起こして服役した若い男は、刑務所の雑居房に入って他の服役囚と暮らすようになって年来の対人恐怖症が治ってしまったそうな。これまた皮肉で暗示的な事例でもある。 しかしなお多くの若者は孤絶した反社会的殺人という行為に走っていく。しかしまたなお、通り魔的な犯行は従来は劇場型だったものが、現代のそれは匿名性が濃厚となり、かりそめの自己表現の域を出なくなってしまった。 例の酒鬼薔薇事件までは犯人の心の闇のようなものが覗けたが、昨今のそれは自己表現にもなりきっていない。つまり殺人そのものは反社会的な行為だが、出来事そのものは非社会的ともいえる、社会に背を向けて孤絶した一種のパロディでしかない。 ならばこれらの犯人は一体なぜこれまでの孤絶に追いこまれてしまったのだろうか。 その一つの鍵への暗示として、八王子の書店で無差別に人を刺し殺した犯人の父親のテレビ記者への応答ぶりには驚かされた。犯人の父親は事を知らされてほとんど動じる様子もなく、親としてというよりもむしろ第三者的に、息子が起こした出来事について、不本意、心外そう、不思議そう、といおうか、我々が予期する親としての対応とは全く異質な口調でしか語っていなかった。 それはいったい、何に起因する家庭での隔絶なのだろうか。 ある専門家は現代の若者たちの、家庭も含めて、彼等の人生における足元、地元の崩壊と説く。従来家庭においての父親の権威、子供たちからみての父親への敬愛は、父親こそが家庭に他者の世界としての「社会」を持ちこむ人故にの筈(はず)だった。しかしその父親にとっても「地元」たる企業も、終身雇用という企業原理が崩壊しつつある今、確かな地元ではあり得なくなったし、大都会でのコミュニティたる「地元」の崩壊は人間同士の連帯をいちじるしく疎外してしまった。 そしてその風潮に、ものごとの相談の相手の構築、獲得の代わりに、IT文明による過剰な情報の氾濫(はんらん)が輪をかけている。 大学で教えている知人の教授の認識では、一つのクラスの中に十数%の、まったく他の生徒と会話することのない学生が存在するという。だから現代の学生、だけではなしに文学の世界においてもだが、今日では激しい討論なるものは影をひそめてしまった。それは結局本ものの友情や敬意の誕生を疎外してしまう。 彼等にとって他者との関(かか)わりを担保するものは、インターネットというヴァーチャルな術であって、何らかの不安を抱えた彼等が頼るよすがはIT情報へのアクセスでしかなく、その結果不安はますます増幅されていく。例えばある若者たちにとっては未知なるセクスに関する打ち明け話や相談も、そうした術にゆだねられていて、結果として若い男性の不能者の数が激増しているという。 論議の不毛の代わりにあるものは、ラップミュージックのラッパーたちが「リスル」と同じ、インターネットへの書きこみでののしり合い、いいっぱなしだけで、人間同士の関わりに何の果実をも実らせはしない。今日の文明は数々の便宜性を提供してくれてはいるが、それが実は人間をいかに本質的に疎外し弱体化してかかっているかを私たちは心得てかからなくてはなるまい。 いかなる人間も他者との関わりなしに生きていく訳にはいかない。それは厄介ではあっても人の世の原理ともいえる。その厄介さの相剋の中でこそ人間は鍛えられ、その存在の意味と価値をも知っていくのだ。 しかし人間自らが開発し運営する文明が、実は将来ある若者たちを逆に孤独、孤絶に追いこみ、その実存を稀薄化し、異形な犯罪までをも誘発しているという文明工学の皮肉に気づかなくてはなるまい。産経新聞
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