|
歌人の佐伯裕子さん(58)に電話をした。著書『家族の時間』で、祖父が敗戦の責を負わされた自身の家に流れる憂いの時間を、繊細な筆致で描いた佐伯さんが「サザエさん」で描かれる家庭をどう感じているのか、関心がわいたからだ。 「伸びやかなサザエさんに新しい女性像を、父権が空回りし女性に怒られてシュンとする波平に新しい父親像を感じました。一方、フネは私たちの世代が思い描くお母さんの典型でした。割烹(かつぽう)着姿に束髪って、昔は三十代以上の女性なら、みなこの格好です。そして、磯野家全体に安定感がにじんでいる。それは、フネの姿に象徴されるように、磯野家の全員が社会の“きまりごと”から決してはみ出さないためだと思います」 《法に触れなければ何をしてもよい》という現在の空気とはまったく異なる空気が「サザエさん」の世界をふんわりと包んでいる。 ◆◇◆ 佐伯さんの話を聞いて、にわかにフネのことが気になりだした。 ノンフィクション作家の工藤美代子さん(56)とは、東京・虎ノ門のスターバックスで待ち合わせた。工藤さんは、性に惑う更年期の女性を描いたノンフィクション『快楽(けらく)』を出版したばかり。更年期といえば、フネがそうではないか。フネにまつわる工藤さんの思いを聞いてみたいと考えたのだ。 昭和四十八年から平成五年までカナダのバンクーバーに暮らしていた工藤さんは、日本に里帰りしたおり、「サザエさん」の単行本をごっそり買ったという。 「カナダに戻り『サザエさん』にはずいぶん慰められました。当時は深い意味など考えませんでしたが、いま振り返ると『サザエさん』の中に日本そのものがあると感じていたのだと思います」 その工藤さん、「サザエさん」の要はフネだという。 「見事な命名だと思いませんか。磯野家の人々はフネという名の船に乗って、戦後を生きてきたんです」 言われてみればその通り。おそらく敗戦とそれに伴う価値観の大転換によって、大黒柱たる波平は少しばかりうろたえ、その家父長的権威は揺らいでいる。それをフネが泰然自若の構えでひっそりと補っている。 漫画の設定ではフネは五十歳前後。現在の五十歳と比べるとはるかに落ち着いている。 工藤さんは、フネと同世代の現代の女性たちが、寿命の延長とバブルの経験によって、良くも悪くも従来とはずいぶん異なる生き方をするようになったと指摘する。 「フネは《人生五十年》という時代の五十歳なんです。人生八十年の五十歳と違うのは当然でしょう。でも、現代の五十歳が惑う姿を見ていると、日本人女性が持っていたはずの包容力やつつましさはどこへ行ったのだろうと、どうしても思ってしまう。私はそれをフネの中に見いだし、ほっとするのです」 バンクーバーで暮らしていたころ、工藤さんは友人と「女は鳥かテーブルか」という議論をよくしたという。『快楽』の中に工藤さんはこう記している。 《鳥は自由だ。空高く舞い上がり好きなところへ飛んでいける。一方、テーブルは四本の脚で、しっかりと地面に立っている。動けないけれど、その上で、家族が食事をしたり、寄りかかったりできる。一家にとっては、なくてはならない存在である》 フネはまさにテーブル、ちゃぶ台なのだ。(桑原聡)
|