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しょうゆをむらさきと呼び習わすのは、江戸時代に紫色を珍重する気風があり、同じく貴重品だったしょうゆをそう呼ぶようになったというのがある。別にいろんな説もあるそうだが、江戸文化が独自に花開き広く食生活にもおよんだ。それで濃厚な味を好む江戸っ子向けの濃い口しょうゆを生んだことは間違いない。 その濃い口しょうゆの生産を担ってきたのが利根川すじの醸造家たち。中でも野田のしょうゆ業者は江戸川を使って大消費地・江戸まで高速で商品を運び、他産地を圧倒していった。いまでは淡口(うすくち)好みの関西も制し、日本一のしょうゆ産地となっている。 ◇ ■江戸へ地の利、川で栄える 利根川を河口からさかのぼっていると、つくづくこの地域が東京との結びつきで成り立っていることがわかる。ふつう、大きな川沿いには鉄道や高速道路が走っているものだが、利根川下流域にはそれがない。川すじをたどるより東京へいったん帰り、また目的地に行った方が早い。交通網は東京と放射線状につながり整備されている。 野田のしょうゆも、この江戸東京への地の利をえて、発展した。 東京・秋葉原からつくばエクスプレスに乗り、東武野田線に乗り換え約1時間。野田市駅からキッコーマン本社まで歩いて10分。その道すじは、関連工場や研究所などが林立し、しょうゆのかおりがほのかに漂う。昼食に入ったソバ店もキッコーマン、せんべい店もキッコーマン、ここは企業城下町なのだ。 「日本の代表的しょうゆ産地は和歌山の湯浅、兵庫の龍野、小豆島、銚子、野田となりますが、その中で野田は新参者。それがいまシェア31%と国内トップメーカーになれたのはひとえに川のおかげです」 そういうのは、同社国際食文化研究センター、平山忠夫さん(62)だ。 しょうゆの歴史をひもとくと、はじまりは鎌倉時代、金山寺みそにたまりじょうゆのようなものを発見し、湯浅で工夫を重ねて生産が始まった。その後各地で作られるようになり、関東では紀州と縁が深い銚子でヒゲタ、ヤマサなどが創業。キッコーマンの始祖となる茂木家・高梨家が野田でしょうゆ醸造を始めるのは17世紀半ばのことだ。銚子に遅れること半世紀。 関東平野の川すじはしょうゆづくりに適していた。原料の大豆や小麦、塩が近在でとれる。湿った川風が醸造をうながす。材料を運ぶにも商品を運ぶにも川が活躍。さらに江戸川の整備が進み、日本橋まで江戸川べりの野田からは半日で着く。一気に商機をつかんで今日に至る。 ところで、かねて気に入らないのは東京の真っ黒いだし汁だ。関西出身者には淡口(うすくち)のだしが恋しい。なぜ関東は濃い口一辺倒なのか。 「これには江戸の意地とでもいうものがあるのです」 平山さんの説明では、江戸のしょうゆの転機は8代将軍、徳川吉宗の時代(1716〜45年)。政治の実権は握ったが文化・経済は上方に牛耳られたまま。それを「関東地回り経済」を唱えて脱しようとした。江戸紫など紫文化が花開き、江戸っ子の口にあう濃い口しょうゆが発達する契機になった。 「そばのつゆ、握り、かば焼きなど江戸っ子の好きな食べ物は濃厚で甘い。濃い口が合うのです」。いま全国に流通するしょうゆの8割が濃い口という。 さて、意地といえば、野田でいまもしょうゆ樽(たる)を作っている職人がいると聞いた。玉ノ井芳雄さん(81)。吹きさらしの小屋に槌(つち)音が響いていた。 「以前は野田だけでも1000人のしょうゆ樽職人がいたんやが。いまはワシがキッコーマンから依頼されたミニチュア樽を作るくらいかなあ」 展示会に出したり、大学に呼ばれて話をしたり伝統を伝える活動を続けている。本も書く。いただいた1冊にサインをお願いすると、さらさらとしたためた。 「野田はむらさき 大樹ありてのみれん花」 (石野伸子) 産経新聞
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