明確さ欠く終末期医療ガイドライン
明確さ欠く終末期医療ガイドライン


 ■医師は罪問われず延命中止できるか  ≪「中止」と違法性の関係≫

 厚生労働省は去る4月9日「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を発表した。

 ガイドラインは「終末期医療における医療の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為の中止」を取り上げ、これらを行うにあたっては、医師らによる適切な説明と患者本人による意思決定を基本とするとしたうえで、終末期医療およびケアの方針決定は「患者の意思確認ができる場合」と「それができない場合」に分け、さらに後者は「家族などが患者の意思を推定できる場合」と「それができない場合」に分けて指針を示した。

 かねてよりこの問題に関心を抱いてきた私は、大きな期待をもってこのガイドラインを迎えたが、人間の生・死にかかわる重大事であるのに、いくら読み返しても腹の底にどすんとくる重量感がない。  それは、ガイドラインがもっぱら手続き面に的を絞っていて、その前提となる「末期疾患」「末期医療」の概念の定義づけがなされておらず、また医療行為の「不開始」「中止」は、その「開始」「変更」と異なり、違法性を帯びる可能性があるのにそれが意識されていないからである。

 ≪消極的安楽死を考える≫

 「中止」の意義が明示されていなくても、本ガイドラインは富山県射水市民病院で入院患者数人が人工呼吸器を取り外されて死亡した事件の発生という背景の下で発表されており、「中止」がALS(筋萎縮性側索硬化症)などの不治の病の患者の延命治療中止を意味することは明らかである。そして、生命維持装置の取り外しなど延命措置の中止は“死”をもたらす措置であり、それはすなわち安楽死行為である。

 安楽死には、致死薬の投与などにより生命を終結させる積極的安楽死にとどまらず、治療行為を行わないことにより寿命を縮める消極的安楽死も含まれている。前者は死を与えるものであるのに対し、後者は死に近づけるものという差異はあるが、人為的に死期を早める行為であることに変わりがない。

 生命維持装置の取り外し(医療行為の中止)は、なすべき医療措置を行わなかった場合(医療行為の不開始)と価値的に同一視できるから、ともに消極的安楽死行為である。そしてわが国では、いかなる形態の安楽死であれ、それは殺人、嘱託殺人、自殺幇助(ほうじょ)などの犯罪である。したがって、医療行為の不開始・中止を論ずることは医療の問題としてだけでなく、刑事責任の存否の問題として扱うことを意味するのである。厚労省はこの点に議論が進展することを回避しようとして、中身の曖昧(あいまい)なガイドラインで済まそうとしたのではあるまいか。

 ≪「質」に生命の意義ある≫

 「生命不可侵」を絶対視する宗教的・倫理的生命観を前提とする限り、人為的に生命を短縮させる安楽死は、たとえそれが消極的安楽死であっても神の摂理に反するものとして正当性を持ち得ず、法的にも適法とはいえない。

 しかし、今や生命の意義は「長さ」ではなく「質」に転換したとの認識に立ち、その「質」も本人自らが決定すべきもの(自己決定)ととらえるならば、問題に正面から取り組み、一定の要件の下の消極的安楽死を是認する方向で検討をしなければならない。すでに、安楽死の先進国であるオランダでは積極的安楽死につき、事実上の合法化の段階を経て、2001年に法律上も合法化に踏み切っており、わが国でも積極的安楽死はともかく、消極的安楽死は事実上かなり行われていると推測されもするのである。

 安楽死正当化の根本理念を「自己決定」に求めるとすれば、手続きを定めるうえで最も重要なことは、意識不明などのため患者の意思確認ができない場合はどうするかという点である。これにつき、ガイドラインは場合を分けてきめ細かく指針を示している。そのこと自体は有益・有用であるが、手続き面が精緻(せいち)であってもその前提となる実体面が空疎であれば、ものの役に立たない。

 こうした事態になったのは「終末期の問題は患者の生死にかかわるので慎重さが求められた」(検討会座長、4月10日付読売新聞)とのことであるが、生死にかかわる問題であればこそ基準ないし要件を明確にする必要があるのではないか。それによって医師は、その基準ないし要件を遵守している限り、犯罪者の烙印(らくいん)を押されることなく、安心して医療行為の中止などができることになるのであり、所管庁はそういう態勢の樹立こそめざすべきであろう。(【正論】白鴎大学法科大学院院長 土本武司・産経新聞)