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「津川君、来年の契約更改はないよ」。昭和38年秋、津川は松竹社長の城戸四郎に呼ばれ、こう言われた。 5年間で30本以上に出演したがすべて不発。「あの手の顔はもう古い。下手なくせにギャラは高い」という社員たちの陰口は津川の耳にも入っていた。だが、社長からは「君がいると社のイメージダウンだ」とまで言われてしまった。「あの言葉はさすがにショックだった」 フリーになった津川は主な仕事場を新媒体のテレビに移し、舞台、さらに他社の映画出演などをしながら、起死回生の機会をねらう。 しかし、29歳になった44年、今度はインドネシア・スカルノ大統領の第三夫人、デビとの不倫が発覚。この一大スキャンダルでまたもや信頼を失い、仕事も激減した。彼の再起はもはやないと思われた。 「世の中のみんなはお前が嫌いなんだから殺される悪役をやれ!」 かねてから公私両面で親交のあった大阪・朝日放送のディレクター(現在はフリー)、松本明が、津川のスキャンダルを逆手にとり、47年から始まったヒット時代劇「必殺シリーズ」で、各シリーズの第1回放送に津川を起用した。これが評判となり、津川自身も二枚目役者が敬遠しがちな悪役に挑戦するうちに演技開眼。「陰から光を出す芝居のおもしろさが分かるようになった」 56年、東陽一監督の映画「マノン」で津川はブルーリボン賞助演男優賞を受賞。一気に演技派の評価が高まった彼は、ドラマ、映画、舞台と活躍の場を広げる。 「自分はうまい役者なんだ」と思い始めていた津川。しかしその自信は、伊丹十三監督によって打ち砕かれた。 「芝居の基礎中の基礎であるせりふについて、そのスピード、歯切れ、強弱、硬軟、緩急…に至るまで、なんでこんなに言われなきゃいけないんだと思うくらいダメ出しされた」 津川は「あげまん」「スーパーの女」など9本の伊丹作品に出演。「彼はそれまで出会ってきたどの監督よりも手ごわかった。普通の監督は役者ができる範囲でいいところを取るけど、伊丹さんはできないことをやらせた」=敬称略(安藤明子) 産経新聞
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