四島交渉で対露迎合した政府
四島交渉で対露迎合した政府


 ≪自分勝手な“政経不可分”≫

 プーチン首相の訪日結果をみて、われわれ日本人、とくに外交担当者が国際交渉一般、とくにロシア式交渉法に習熟する必要性を痛感する。

 第1は、交渉カードの用い方。自己の得意な切り札で不利な点を補う。これは、どの交渉者であれ用いる交渉の常道であろう。

 わが国は北方領土返還という目的を実現するために、世界第二位といわれる経済力を梃子(てこ)として用いようとした。が、かつてのロシアは日本側が“政経不可分”戦術に訴えていると非難したために、日本政府は同戦術を「拡大均衡」、「重層的アプローチ」などへと水割り、修正せざるをえなかった。

 ところが、油価高騰のプーチン時代になると、ロシア自身がエネルギー資源という経済力を外交的手段として活用するようになった。ロシアが2006年元日に仕掛けた対ウクライナ・ガス供給の一時停止を正当化しようとして、ラブロフ外相は、“政経不可分”の主張を堂々と展開した。

 「外交政策における経済力の利用は、何ら異常なことではない。ノーマルな国家は、外交政策を遂行するために己が得意とする長所−それが経済的なものであれ、その他のものであれ−を利用せねばならない」

 このように今日では自らが“政経不可分”策を採用しておきながら、こと日本にたいする限り、プーチン首相は日本が同様の戦術をとることを依然として認めようとしないのである。同首相は「(北方領土)問題の解決を望むならば、そのための条件整備とあらゆる方面での関係発展が必要」と述べ、経済協力を先行させて領土問題を棚上げにしようと目論(もくろ)む。

 ≪“バザール戦術”の達人≫  第2に、ロシア人が“バザール商法”の達人であることを肝に銘じなければならない。

 わが国は、サンフランシスコ講和条約にすでに調印済みの諸国との整合性に鑑(かんが)みて、南樺太と18の千島諸島の対日返還を断念し、4島のみの返還要求に的を絞っている。4島が日本側の掛け値なしの要求なのである。このような“正札商法”にたいして、ロシア人は、バザール(市場)でバナナの叩(たた)き売りを行うように、まず相手方に値段を言わせ、その後揉(も)みに揉んで、最終的には「中(なか)をとろう」ともちかける。

 麻生首相や谷内政府代表の発言は、日露が北方四島の面積を2等分することが適当な妥協であるかのような誤解を招く。日本側が千島樺太交換条約やポーツマス講和条約で合法的に得た南樺太や千島列島をロシア側に譲るという大きな妥協を前もって行っていることを失念している。

 しかも、ロシア側は「日本くみしやすし」とみなして「3・5島」を、さらに「3島」「2・5島」へと値切ってくることは、ほぼたしかである。案の定、プーチン首相は、今後「あらゆるバリアント(選択肢)を話し合うことになる」と述べた。

 ≪「東京宣言」を堅持せよ≫  日本の対露外交の担当者たちは、第3に、交渉の“段階論”についても不勉強である。

 国際交渉学の常識によれば、交渉は3つの段階を経て妥結へ至る。そもそも交渉に入るか否かについての合意がなされるのが第1段階。北朝鮮のような「悪漢国家」は交渉のテーブルに着くこと自体を拒否することから考えて、この段階はことのほか重要である。第2は、交渉を行う原則や方法についての合意。各当事者が異なるアプローチを採っている限り、何時まで経っても交渉は平行線を辿(たど)るからである。第3は、詰めの段階。交渉で合意に達したことを正確に文書にまとめ、その解釈が異ならないようにする。

 北方領土交渉は、日ソ間に領土問題など存在しないとソ連側が強弁していた時期を克服し、ゴルバチョフ期に交渉に入ることに合意した(第1段階)。エリツィン期に入ると、交渉に臨む際に日露双方が依拠すべき定則についての合意が達成された。「東京宣言」第2条は規定する。「(日露)双方は、この(北方四島)問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決する」

 つまり、エリツィン訪日によって北方領土交渉は第2段階に入ったのである。これは、日本側にとり大きな成果であり、プーチン氏から見ると何とかして否定したいエリツィン氏の勇み足であった。昨年12月訪日のナルイシキン・ロシア大統領府長官が、北方領土問題にたいし「新たな標準的ではないアプローチ」をとるべきだと主張したのは、プーチン氏のこのような思惑を表していた。

 今年2月サハリンで麻生首相が、この点にかんし同長官の提案に迎合し見解を一致させたことは、「東京宣言」第2条が危殆(きたい)に瀕(ひん)しかねない行為であった。極言すれば、たとえ「古く非独創的で型にはまった」と言われようと、「東京宣言」で合意済みのアプローチこそを日本側は堅持すべきなのである。  (産経【正論】北大名誉教授・木村汎)