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≪政治混乱を警戒したトウ小平≫ 天安門事件が起こって20年だという。変転きわまりない時代にあって錯雑たる日常の中で身を処していると、時間の経(た)つのがあきれるほど速い。この分でいくと、あの大事件も時の流れに押し流され、遠い記憶の彼方(かなた)に消え去ってしまいかねない。そう、だからこそ20周年といった区切りをつけての真摯(しんし)なる回顧が必要なのにちがいない。 振り返れば、現代中国の栄光と汚辱、成功と挫折の淵源(えんげん)が天安門事件の中にあったことに気づかされる。いうまでもなく、当時の最高権力者はトウ小平氏であった。中国の一大転機は、トウ氏が全権を掌握して開かれた1978年12月の共産党第11期3中総(中央委員会総会)であった。ここで中国経済の改革・開放が宣せられた。計画経済を市場経済へ転じさせるという史上に例をみない実験の開始であった。実験は「高速発展」を結実した。 しかし、市場経済化とは経済主体の多元化である。これが政治的な混乱をもたらすならば、改革・開放の基盤自体が崩壊するというのがトウ氏の強い懸念であった。改革・開放とほとんど同時に「4つの基本原則」が提唱されたことを忘れるわけにいかない。(1)社会主義への道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン・毛沢東思想、である。核心は(3)の、要するに共産党独裁の堅持である。同氏は次のようにいう。 「共産党の指導を離れて、果たして誰が社会主義の経済、政治、軍事、文化を推進していくのか。今日の中国では、共産党の指導を離れて大衆の自然発生性を賛美するようなことは絶対にしてはならない」 改革・開放が超えてはならない「閾値(いきち)」がこれである。天安門事件とは、「大衆」がこの閾値を超えて最高実力者によって徹底的にたたきつぶされた出来事に他ならない。言い換えれば、天安門事件はトウ理論の「正しさ」を立証した象徴的な出来事であった。 ≪大量虐殺で体制に深い傷≫ 天安門事件から3年余を経て開かれた第14回共産党大会で提起されたものが、江沢民氏による「社会主義市場経済論」であるが、トウ理論の焼き直しである。社会主義市場経済は論理的にいえば蒙昧(もうまい)でしかない。しかしトウ氏や江氏は、市場経済に内在する大衆の「自然発生性」が社会と政治の混乱につながり、ましてやこれが共産党独裁体制をゆるがすのであれば、大衆は力をもって排除されねばならないという断固たる意思をみなぎらせていた。 社会主義市場経済とは、共産党独裁下での市場経済化という意味である。そうであれば、「社会主義」市場経済はただの形容詞などではない。天安門事件によりその存在意義を否応(いやおう)なくみせつけられた実効的概念に他ならない。 改革・開放の方はどうかというと、天安門事件を前後する時点での一時的頓挫の時期を経て概(おおむ)ね順調な展開をみせた。特に1992年初にトウ氏によって飛ばされた「南巡講話」の檄(げき)に呼応して、経済はむしろ過熱気味に推移した。外国企業投資や貿易も再開され、中国は次第に有力な経済国家として頭角を現していった。そしてこのことがまた、社会主義市場経済論の誤りなきを党指導部に確信させたのである。 ≪民主化つぶした高いコスト≫ しかし、物事にはすべて両面がある。人民解放軍による人民の大量虐殺が共産党の権威に深い傷を負わせたのは当然のことであった。市場経済化による社会階層の多元化もまた共産党の求心力を弱め、社会主義イデオロギーの正統性を失わせた。市場経済化は勝者に富をもたらすと同時に、敗者をも再生産する。社会主義市場経済の下での勝者とは、党官僚や彼らに連なる「新中間層」と称される権益階層のみであり、圧倒的多数の農民や都市下層住民(「弱勢群体」)との格差は、時の経過とともにますます深刻化していった。 江氏を後継したのが胡錦濤氏である。胡氏は「調和社会」をスローガンとする「親民政策」をもって登場した。勝者と敗者との断裂が暴動や動乱の形をとった政治的混乱を招来しかねないという共産党の危機意識の反映である。 共産党は政治的民主化の芽を、時に暴力的に、時に隠微な形で摘み取りながら、ひたすら経済成長を追い求めてきたのだが、その行動自体がみずからの正統性を証すイデオロギーや公正信義の根拠を掘り崩してきたといっても過言ではない。 共産党に再度の求心力を保証するものは、おそらくナショナリズム以外にはあるまい。愛国主義的機運は経済大国化とともに国民の中にも昂揚(こうよう)しつつある。少数民族の抵抗、反日愛国主義運動、台湾併合など、国民から粗暴な愛国主義を誘い出すテーマに中国は事欠かない。天安門広場での民主化要求運動をたたきつぶしたことのコストを容易に回収できないまま、次代を開く正統性原理を探しあぐねて、党指導部は夕闇の中でたたずんでいるようにみえる。(産経【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫)
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