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昨今の出来事を見て痛感するのは、戦後日本人とはなんと無防備になってしまったかという点である。社会において、自分のことは最低自分で守るということが希薄になっているようである。 僕が育った時代には、両親を含め戦前の教育を受けた世代から教えを受けてきたせいか、物事には自分の責任の一端があるということを口酸っぱく教わり、結果そういう意識で物事に対処する意識が心のなかにある。 それは天災であれ人災であれ犯罪であれ、結果的に起こったことが100パーセント自分にとって不可抗力であったかと言えば、程度の差はあれ、そうは言い切れない場合がほとんどである。ビジネスを携わってきた僕の会社生活においても、一見相手側に事情で、何らか会社にとって不都合や、損失を与えることがある場合でも、必ずやその要因に自らの落ち度がある場合がほとんどである。 こういう意識は確かに古き良き日本の道徳観からくるもので、日本特有のものかもしれない。確かにアメリカでは、部下の失敗の非を問うても、必ず反射的にでてくる常套文句は「わたしのせいじゃないわ。」である。アメリカはこういう意識の前提のもと、ある意味では社会のメカニズムが成り立っている点があることも付記しておく。 しかしそのアメリカには、一方で自分の安全は自分で守るという精神だけは極端なほどあるのも事実である。武器所有を合法とするアメリカの州があるが、そういった精神が根底にある。 最近の日本を見る場合、最低国民の権利でもあり義務でもある、「自分の安全は自分で守る」ということが全く欠如し、能天気に物事に対処し、そこで騙されても、一切騙した方が悪いということですべてを片づけるのである。憲法序文の「諸国民の公正と信義に信頼して」が日本国としての安全保障の考えどころか、個人生活までその呪縛に陥っているのである。 遭難事件、食品中毒事件、そして暴行事件など、どれをとっても要因の大小の差はあれ、自分の安全を守る責任という要素が必ず欠けているのである。そしてマスコミや政治は、社会が悪い、政治が悪い、システムが悪いとバカの一つ覚えの議論に終始するのである。これでは何も解決しない。 もちろんそうだからと言って僕が人命軽視や犯罪を容認しているわけではないし、被害者に対してはお気の毒と思う。 今回の米兵暴行問題について、もちろん米兵の犯罪やその管理体制に対して怒りをぶつけることを否定するわけではないが、原因を作った当事者の責任というものが一切問われていない点が、不思議で仕方がないのである。沖縄では田中外相時代に少女暴行事件があった。米国側にかかる事態が二度とないようにしてもらうのは当たり前だが、そういった犯罪を起こさせない僕たち一人ひとりが「安全保障マインド」を構築することこそが、事件を防ぐ大きな抑止力になることを忘れているのである。そして沖縄に基地があるからこういうことが起こるから基地を撤廃しろという頓珍漢な叫びだけがある。 かって僕たちが学んだ「人をみたら泥棒と思え」という格言こそが、子供の教育になくてはならない意識なのである。また「騙されるほうも悪い。」という言葉こそ、親や教師が何度も何度も教育すべきわかりやすい言葉なのである。いったいわけのわからないしかも外国人のオートバイに乗せてもらう無防備さ、これはまさに犯罪を「どうぞおつくりくださいませ」というのに等しい。基地が悪いと決めつけるが、僕たち大都会においても、その瞬間その瞬間に暴力犯罪がうごめいている中で、自分の軽率さを制御しなければならない感覚を持って生きていかねばならないのである。 食品問題でもそうである、これほど中国に食生活を依存せねばならなくなった体たらくは国民ひとりひとりが安全な日本産を避け、安易に価格だけで中国産を選択した市場主義がかかる大事件を招いたのである。日本国民の食の問題は絶対に市場主義とは隔離された、国家の安全保障としての地位を保たなければならないはずであった。 消費者主権などとサヨクは叫ぶが、それはより安全で確かなものを国民自身が自分のリスクで選択する基本的な思考が欠けており、何かあればすべて政府や役人の責任だと叫んでいるだけでこれでは、いつまでたっても物事の根本は解決しないのである。 いまこそ日本人は、自らの安全は自らの良識とリスクで守るという基本線に戻って考えるべきである。 奥山篤信: 京都大学工学部建築学科卒 東京大学経済学部卒 三菱商事本社入社 6年余にわたる米国三菱ニューヨーク本店勤務を経て 平成12年退社 平河総合戦略研究所代表理事
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