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■中国は旧態依然 私が共同通信の編集局に在籍していた1996年のことだ。在日中国大使館の報道担当参事官として着任したA氏が、犬養康彦社長に面会に来た。着任のあいさつが目的ではなかった。A氏は思いがけないことを言い出したのだ。 「本日うかがったのは、馬毓真(ばいくしん)国務院新聞弁公室副主任の指示で、辺見さんの問題について中国政府の意向を伝えるためです」 辺見問題とは、1987年1月の胡耀邦総書記解任事件をめぐり、共同北京支局員の辺見秀逸記者(後に芥川賞作家になった辺見庸氏)が、胡氏の「罪状」に関する内部報告書をスクープし、同年5月国外退去処分を受けたことを指す。 文化大革命後、日本人記者の国外退去は初めてで、国際的な反響を呼んだ。辺見記者と共同にとって、情報源の新華社記者が逮捕されたため事態は深刻で、当時、専務・編集主幹の犬養氏は、直ちに北京に飛んだ。 犬養氏の訪中は、外信部の中国班長だった私の進言による。犬養氏には、辺見記者の取材活動の正当性を主張しながら、このような事態になったのは遺憾と表明し、逮捕された新華社記者への寛大な措置を要請するよう頼んだ。中国側は犬養氏の訪中を歓迎し、辺見問題についてはほとんど話題にならなかったという。 A氏が来訪する数年前に、新華社記者は釈放されてはいたが、「辺見問題」と聞いたときに私は一瞬緊張した。犬養氏も同様だったと思う。というのも馬毓真氏は当時の外務省報道局長、A氏は辺見記者に情報源を追及した担当官だったからだ。ところがA氏は驚くべき話をした。 「馬毓真はこのほど駐英大使を終え新聞弁公室の要職に就きました。私が日本に赴任する前、必ず犬養社長に伝えよと命じたのです。『あのときは共同と辺見さんにまことに非礼なことをした。当時の国内の複雑な政治状況下で、やむを得ない事情があったことをぜひ理解してほしい』と」 伝言はそれだけではなかった。 「中国政府として辺見さんを中国に招待し、非礼をわびたい。辺見さんにいつでも訪中していただきたいと伝えてください」 辺見氏は既に共同を退社していたため、私は趣旨を辺見氏にファクスで連絡したが、返事はなかった。辺見氏は二度と訪中しようとはしなかった。 馬毓真氏とは私自身にも思い出がある。共同の北京支局員だった76年4月の第一次天安門事件の後、私は毛沢東の個人崇拝が再び高まったことについて、極左派が毛沢東の権威を利用し権力を握ろうとしているとの連載記事を書いた。 その結果、私は外務省報道局ににらまれ、一切の取材許可が出なくなり、同様の記事で反中報道のレッテルを張られたAFP通信の記者とともに記者証更新拒否を示唆する警告を受けた。幸い半年後には江青夫人ら極左四人組が逮捕され、世の中は百八十度変わった。 当時、報道課長だったのが馬氏だった。彼は私に対し「あなたの中国理解への努力に敬意を表し、これまで冷遇してきたことを許してほしい。今後はどんな要求でも認めるようにする」と話した。 実際、私はAFP記者とともに翌年、当時外国人は旅行もできなかった新疆ウイグル自治区の取材を認められた。帰国前には江南の農村の農民家庭に1週間滞在する許可も出た。 第一次天安門事件当時は、極左派の天下であり、毛沢東の個人崇拝を記事にすること自体、タブーだった。「辺見問題」のときは、保守派長老が絶大な発言力を持っており、辺見記者がスクープした内部文書は、長老らの胡耀邦氏への不当な批判が生々しく表現されていた。 外務省報道局は、その時々の権力の意向に逆らうことはできず、時に外国人記者の報道に対して、意に反する処分や批判をしなければならない立場にある。馬毓真氏は、誠実な人柄で知られ、辺見氏の国外退去には当時は疑問を持っていたに違いなかった。 中国で仕事をするほとんどの外国人記者は、中国理解のため事実に接近するのに苦労し、本紙の長期連載記事「トウ小平秘録」もそうした努力の一つだった。記事には当然、事実に対し、中国当局とは異なる見方や批判も含まれる。 その単行本に対し、税関当局は検閲で「中国共産党を攻撃し、中国政府を誹謗(ひぼう)した」と断じ輸入禁止処分にした。理由は天安門事件の記述にあるらしい。 過去の経験を思い出しながら、中国の共産党支配体制の本質はあまり変わっていないと改めて考えた。 産経新聞【緯度経度】北京・伊藤正
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