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≪サッチャー首相の嘆き≫ おおばともみつ氏の『世界ビジネスジョーク集』には英国の元首相、マーガレット・サッチャー女史がしばしば登場する。 中でも秀逸に思えるのは1982年、南大西洋の英国領、フォークランド諸島をアルゼンチンが武力で侵攻した「フォークランド紛争」をめぐるものである。 サッチャー首相は武力によるフォークランド奪還を強く唱えた。しかし他の閣僚たちは戦いに消極的である。そこで彼女は閣僚たちを前にこう叫んだという。 「我が内閣に、男は1人しかいないのか」 言わずもがなかもしれないが、これが上質なジョークとして成り立つのは、その「1人」がサッチャー首相自身だろうと容易に想像できるからである。 だが「鉄の女」と言われた彼女の普段の言動からすれば、ひょっとするとジョークではなく、ほんとにあった話かもしれないと思えてくる。実際にサッチャー首相はこの後揺るぎない決意で、戦いを躊躇(ちゅうちょ)する英国の政治家や国民を鼓舞し続け、ついにフォークランドを奪還したのだった。 近年、洋の東西を問わず「男らしさ」「女らしさ」の定義はあいまいになってきている。そうしたものを根本から否定するジェンダーフリー論もある。 しかし仮に、「決断力がある」とか「圧力に屈しない」「戦うことを躊躇しない」といったことが伝統的な「男らしさ」を示すとすれば、サッチャーさんほど「男らしい」政治家はいなかったような気がする。ちょっとしたパラドックス(逆説)である。 ≪「嫌がることはしない」≫ そんな「男らしさ」と「女らしさ」の逆転現象は日本でも顕著になってきている。 例えばスポーツの世界である。最近のオリンピックや世界選手権でも、プレッシャーで本来の力を発揮できない男子を尻目に、たくましく、そして闘志満々に戦い、国民を喜ばせてきたのは女子選手たちだった。実業や言論などの分野でも、強いリーダーシップを持った女性たちが活躍中だ。 だがここで、そんな女性たちの賛美をしようというのではない。男中心にやってきた日本の政治から「男らしさ」が失われつつあるのが気になるのだ。とりわけ福田康夫首相の対中国外交にはそれが顕著に感じられてならない。 まず昨年9月、自民党総裁選出馬の記者会見で、靖国神社への参拝問題について「相手の嫌がることをあえてする必要はない」とあっさり参拝を否定した。 中国製ギョーザによる中毒事件では、中国公安省が中国国内での毒物混入を否定、日本側に非があるかのような見解を発表した。当然、国民の生命を守る立場にある首相としては反発すべきところだが、何と「(中国側は)非常に前向きだ」と、最大限の「理解」を示してしまった。 さらにチベット騒乱をめぐり国会で、5月に来日が予定される胡錦濤主席との首脳会談の席上、この問題を議題にするか問われた。首相の答弁は「率直な意見交換が必要ならば…」と、いかにも消極的なものだった。 ≪「やさしさ」だけでなく≫ 外交も国益や国民を守るための一種の戦いである。だが、こんな発言では最初から降参したようなものである。胡錦濤主席も安心しきって来日することだろう。 もしサッチャー首相があのとき「相手(アルゼンチン)の嫌がることはしない」と言っていたら、フォークランドが返っていなかったのは間違いない。 外交ばかりでない。ガソリン税の暫定税率を維持することが国のためぜひ必要と思うのなら、なぜ衆院解散や自らの進退をかけて野党との「戦い」に打って出なかったのか。そんな気迫がまるで感じられないのである。 トップがこうだから、今や政府や与党全体が「戦う」という気持ちを失っている。 野党にしてもそうだ。小沢一郎代表をはじめ民主党の中に「党や政局など小せえ、小せえ」と、大局に立とうという「男気」にあふれた政治家は見あたらない。 むろん政治には「やさしさ」だとか「思いやり」「いたわり」も欠かせない。時としては妥協しなければならないし「踏みとどまる勇気」も必要だろう。これまでの日本では、そうした面に重きが置かれてきた。 しかし今や、世界的にナショナリズムが猖獗(しょうけつ)を極めている時代である。各地で紛争は後を絶たず、「ならず者国家」と言われた国も健在だ。生き馬の目を抜くような国際経済の世界もある。 今、日本の政治に最も求められているのが「男らしさ」であることは明らかだろう。(産経新聞 論説委員・皿木喜久)
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