聖火は権力の篝火に堕した
聖火は権力の篝火に堕した


 ご存じ、中国の小説「西遊記」では、孫悟空が●斗雲(きんとうん)に乗ると、ひとっ飛びで10万8000里を行くという。北京五輪の聖火リレーが通る地球1周コースはそれには及ばないが、距離にして計13万7000キロになる。

 さすがに白髪三千丈の国である。聖火は5大陸を制覇し、世界最高峰のエベレストに達する計画だ。距離と高さと日数で、いずれも過去の五輪を圧倒している。聖火リレーを始めたナチスドイツはせいぜいが欧州制覇だから、こちらとは質も規模もまったく違う。

 国威発揚なのか、民族の結束のためか、あるいは国際社会に「中国の台頭」をスポーツ分野でも印象づけようとしたのか。聖火リレーの極大化はそのすべてだろう。

 聖火が地球をめぐっている間に、中国は海南省ボアオで「アジアフォーラム」を開催し、胡錦濤主席が各国の首脳を前に「平和の発展」を高らかに宣言するはずだった。スポーツと政治の一体化である。

 ところが、チベットの騒乱によって巨大な歯車が逆回転を始めた。見栄を張って造作を大きくした分、反発のうねりも大きい。

 ギリシャ神話に登場する「ゼウスの聖火」が、一気に中国の統治体制を象徴する「権力の篝火」に堕してしまった。地球規模で歓迎されるはずが、青装束の伴走者に守られる単なる権威のシンボルになった。

 チベットに漢民族が大量に植民され、ラサではチベット人の人口を上回った。チベット仏教すら管理下に置いて文化を破壊し、ついにラサの僧侶を決起させた。一連の騒乱は、漢民族が周辺を従える「時代錯誤の帝国」であったことを露呈した。

 帝国は辺境にはチベットばかりか、新彊ウイグルをも擁し、周辺ではミャンマー、北朝鮮までをも従えようとする。ネパールもまた、毛沢東主義派が勢力を伸ばしてもいる。

 しかし、実力以上の帝国の拡大は、かつてのローマ帝国を崩壊させたし、戦前のナチスドイツも消し去った。フランスでさえ第4共和制がアルジェリアの騒乱で倒れ、ソ連も周辺地域の反政府運動で弱体化し、やがて崩壊した。

 中国指導部はもうパニック状態に陥ったであろう。胡錦濤体制が恐れるのは、実はチベット騒乱でも聖火リレーの妨害でもない。それらを引き金とする国内の排外的ナショナリズムの高揚なのではないか。排外主義はいつ反中国政府に転換するか分からない。

 米国の中国専門家、スーザン・シャーク元国務次官補代理は指導部が人民の攻撃的なナショナリズムを阻止できない不安に怯(おび)え、軍に依存を強める結果を招いていると指摘する(『中国 危うい超大国』)。

 胡錦濤指導部はいま、チベットを武力で抑え、「権力の篝(かがり)火」は中国系を動員して防御させる。開催中のアジアフォーラムでは中国びいきのオーストラリアのラッド首相やパキスタンのムシャラフ大統領らを抱き込んだ。

 これらに失敗したとき、中国外交はナショナリズムに押されて周辺国に高圧的になる。中国が抱える様々なガスにどこで火がつくかは分からない。彼らはまた、それが帝国の綻(ほころ)びになることも知っている。(産経東京特派員【湯浅博の世界読解】) ●=角の右に力