チベット同化政策 国の成り立ち考える機会
チベット同化政策 国の成り立ち考える機会


 新刊の『国歌と音楽』(奥中康人著・春秋社)は伊澤修二の評伝である。伊澤の名には記憶があった。かつて植民地における日本語教育史を調べた時に登場していたからだ。伊澤は日清戦争の勝利で獲得した近代日本初の植民地・台湾に総督府学務部長として赴任。台北郊外で、最初は僅(わず)か6人の生徒を相手に日本語を教え始めている。  この台湾の植民地経営について「威力ヲ以テ其外形を征服スルト同時ニ、別ニ其精神ヲ征服」しなければならないと伊澤は考えていた(『国語教育』1895年)。ならばその「精神の征服」はいかになされようとしたのか−。

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 実は伊澤は、現在の東京芸術大学の前身である東京音楽学校を設立し、その初代校長に着任している。彼と音楽とのかかわりは古い。1851(嘉永4)年、信濃の高遠藩士の家に生まれた彼は、少年時代に藩の楽隊で鼓手を務めた。当時の西洋式のドラム演奏は実は兵学に深く関係しており、部隊の足並みを揃(そろ)え、作戦指示を伝えるために打ち鳴らされていた。高遠藩も近代軍制を確立する上で鼓手隊を養成していたのだ。

 そんな少年時代を過ごして明治新政府の文部官僚となった伊澤は、富国強兵の道具として西洋音楽を積極的に活用し始める。日本古来の伝統的邦楽だと地域差がある。だが西洋音楽を新しく導入すれば、そうした差異の上に均質な音楽文化を上塗りできる。ドラムのリズムが兵の足並みを揃えたように、西洋音楽で文化的な一体感を演出して国民全体の足並みを揃えようと伊澤は考えた。

 そんな伊澤の音楽利用法の典型が「唱歌」の導入に見られる。全国共通の唱歌を歌えば国民的一体感は強調されるし、歌詞を繰り返し口ずさめば標準的日本語の普及も自然に果たされる。そして更に歌詞に報国徳育のメッセージを込めれば、意味は分からずとも身体がそれに反応するようになる…。こうして、いわゆる「国民国家」の形成のために西洋文化を巧みに使おうとした伊澤の生涯を奥中の著書は描き出してゆく。

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 その内容が印象的に感じられたのは、折しもチベット問題で中国が大きく揺れている時期に読んだからかもしれない。1959年のチベット蜂起の記念日である3月10日に、チベット人自治区では恒例のデモが行われた。それを中国政府側がおそらく強引に鎮圧しただろう(報道管制が敷かれ、正確な状況が伝えられていないと言われる)ことから、中国への風当たりが強まる。

 こうしたチベット問題の遠因は、実は日本にあるという説がある。挙国一致体制で短期間のうちに富国強兵政策を進めた明治日本は清との戦争にも勝った。敗れた清の側では、日本に倣って国民国家的統一を目指せと主張するナショナリズムが生まれる。こうした統一志向は、清から蒋介石の中華民国、毛沢東の共産中国へと政権とイデオロギーを超えて受け継がれて来た。チベットへの同化政策はまさにそんなナショナリズムの産物なのだ。

 ただ根は同じだとしても歴史的経緯はずいぶんと異なる。中央政府による漢民族への同化政策に対してチベット人は長く異議申し立てを続けて来ているのに、日本では大きな反発なしに文化的多様性が塗り込められて来た。その対比に伊澤の「貢献」を改めて思う。そして、今でも親日家の多い台湾は、日本の植民地経営が珍しくうまくいっていた場所だったと評価されることがあるが、そうだとしたら、それもまた、伊澤の巧みな文化政策によって「精神の征服」まで果たされた結果だったのかもしれない。

 チベット問題については、亡命政権と北京政府が交渉のテーブルにつけるよう、国際社会が後押しする必要があるだろう。だが、その一方で、翻って自分の「国」がどのように作られてきたか、周辺国にどのように働きかけてきたか、この機会にそれを省みることにも意味があるように思う。(ジャーナリスト 武田徹)産経新聞