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■心正して前向きになろう ロシアの文豪で思想家また宗教人であったトルストイは、ロシア貴族の家に生まれたにもかかわらず、農民のような質素な生活をしながら世のため人のために働いた。根本となる思想は「愛」である。その著書「人は何で生きるか」を読んでみると、人間の真の生き方を教えたものであった。戦国時代の武士は、主君のために戦って死ぬことを潔しとしたが、トルストイは「死を恐れることなく、自分がこの世の中のために貢献したかどうかを思うことが死を生にする」と言っている。 中国の有名な漢詩に、 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず がある。好きな詩の一つである。花は毎年同じように咲く。しかし、人は去年と今年、今年と来年、決して同じではない。つまり今年花見ができた人が、来年も花見ができるとはかぎらない。花が咲いて散るがごとく、人間も世を去っていくことが輪廻(りんね)であると教えている。 此の翁 白頭 真に憐れむ可し 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年 白髪頭のおじいさんの嘆きであり、昔を思いだして紅顔可憐(かれん)な若かりしころを懐かしんでいる。全くその通りである。私も85歳という高年齢になった。父や母の年をずっと通り越して生きており、申し訳ない気持ちでいっぱいである。ついこの間まで「人生七十古来稀なり」であったのに、年月の流れの速さにあぜんとするばかり。ありがたいことだが、さて何をすべきか。いたずらに年を重ねているのではないかと忸怩(じくじ)たる思いである。 最近、すぐに切れるお年寄りが話題になっている。お年寄りが人前もはばからずに大声を出して怒鳴ったり、人に何かと難癖をつける、と非難する記事が新聞雑誌に書かれている。原因は別に大したことではないのである。思うにお年寄りに限らず、人間はみな寂しがりや、すなわち孤独なのだ。だから誰かにかまってもらいたいのであるが、なかなか人間関係がうまくいかないのが世の仕組みである。 禅の教えに「看却下」がある。足元を看(み)よということである。誰にでもできそうだが、そんなに簡単なことではない。足元を看るとはすなわち自分を省みることで、自己反省の厳しさを示す教えである。 1日に1分、いや30秒でも自己批判をしてみることだ。「どうだったかなあ」と振り返る、それでよいのだ。そして前向きの姿勢“forward looking posture”になるべきである。誰にでも至らぬところはある。それを顧みて心を正すことが必要なのであって、何も落ち込むことではない。姿勢すなわち、心を正すことによって、「やるぞ!」という気構えを持つことだ。 最近は己の権利ばかりを主張する利己的で優柔不断な人間が増え、本来の日本の良さがどこかに消えてしまった。欧米の先進思想に偏った人間性の在り方を見直す方法はないものか。人に対しては春風のごとく接し、己に対しては秋霜の厳しさを持つということだ。 お互いに自己をみつめ、その上で明朗に前向きの姿勢でやっていこうではないか。自分の生き方をもっと大切にしなければと思うこのごろである。(せん・げんしつ)産経
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