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≪午前1時半の電話≫ 幼時から世話になった児童文学者の石井桃子さんが、4月2日亡くなった。 逝去から程なく4月3日午前1時半、我が家に電話がかかった。家内が起きて受話器を取る。某新聞文化部の記者であった。「石井さんが亡くなられたかどうか確認したい。知らなければ知っている人を教えてほしい」。家内が「お教えしたらその方へ、今電話をかけるのですか」と訊いたら、ごく自然に「はい」と答えたそうだ。 すっかり目の覚めた私が電話に出て、「総理大臣に何か異変があって秘書官にかけるならともかく、101歳の児童文学者が亡くなったかどうか午前1時半に電話で確認せねばならない理由は何ですか」と尋ねた。記者はうまく答えられなかった。 ほぼ同時に今度は携帯電話が鳴る。出ると某官営放送の記者である。同じ質問に同じことを言って切った。そもそも私は石井さんの逝去を、その時まだ知らなかった。 3日の夜、石井さんの「かつら文庫」を引き継いだ「東京子ども図書館」の関係者から事情をきいた。石井さんは自分の死を1カ月間公表しないでくれ。そう固く言い残して亡くなったそうだ。関係者一同しっかり遺言を守るつもりでいたのに、情報が漏れ取材が殺到した。同日午前3時まで、電話の応対を余儀なくされた人もいたという。私への電話はその余波だった。 すぐれた児童文学者の死が、こうしてひどく騒がしいものになった。自分の生涯を静かに終わらせたい。石井さんの望みが、マスコミの乱暴な取材でかなわなかった。 ≪特ダネばかりに目が≫ 一体マスコミの常識とは何か。ニュースを正確に速く伝える。そのためにできるだけのことをする。記者として立派な常識である。しかしそれ自体が目的ではあるまい。 速く伝えなくても、価値の減じない情報もある。相手かまわず夜中にたたき起こし取材して、一刻も早く伝えねばならない情報がどれだけあるのか。速報性を言うなら、新聞はネットやテレビに負ける。それでも人が新聞を買って読むのは、より正確で深い分析を求めるからだろう。 本来マスコミの役割は、世の中の常識に照らして疑問を覚えるような事象につき、正確な情報を伝え読者や視聴者の判断に資することにある。社会保険庁、国交省、チベットやイラクで、本当は何が起きているのか、背景は何か。当事者が書かれたくない不都合な事実を報じるからこそマスコミは恐れられ尊敬される。本欄にも「正論」などという、私が思うに気恥ずかしい題がつく。 ところがマスコミは、特ダネ、視聴率、締切といったことばかりにエネルギーを注ぎがちだ。その結果文化部の記者まで、夜中に突然電話してくる。こんなマスコミの常識を世間では非常識という。 マスコミの常識には他にも怪しいのがたくさんある。不祥事の疑いがあるだけで、会社や役所の責任者に記者会見で居丈高な物言いをする。テレビのワイドショーやニュースで、無責任かつ根拠のないコメントをする。誤報を流しても簡単な訂正で済ませる。 ≪基本知識にも欠ける≫ ただ新聞は文章が残る分、ずいぶん細かく神経を使っている。テレビは垂れ流しだから、安易な正義感や陳腐なことばで息苦しいほどだ。政府や企業に「猛省」を促し、役人や企業人の堕落を「慨嘆」する報道ステーションの某など、基本的知識の欠如、大仰な言葉や身振りばかり目立ち、見るに堪えない。横に座るジャーナリストは恥ずかしくないだろうか。 それでもお粗末なワイドショーやニュース番組が跋扈(ばっこ)するのは、視聴率さえ高ければスポンサーが大金を払うからだ。内容など気にせず、広告の効果のみを基準に番組を提供する企業の責任は重い。 むろん非常識は政官産学、どこの世界にもある。私が奉職する大学だって非常識がうようよしている。ただ、マスコミはそうした非常識を衝くのを商売にしていながら、自らの非常識を問われることが少ない。よく書かれたい報道されたいと願う企業や官庁が、マスコミ批判をじっと我慢しているのに気づかない。 私が在米日本大使館で広報担当の公使を務めたとき、「阿川は困ったものだ。我々がなにか言うと、書いちゃうから」と文句を言う特派員がいたそうだ。そう、マスコミで大っぴらに批判を受けるのは、だれしもつらい。 もちろん物書きとして、私も同様の責任を負っている。自分の書いたものが思わず人を傷つけたことが何度かある。だから一層、言論活動に携わる者は自分の常識を疑ってかからねばいけない。そう自戒する。心ある多くのジャーナリストにも気をつけてほしい。(産経新聞【正論】慶応大学教授・阿川尚之)
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